「時間」と「とき」 佛教大学公開講座での学び

星野 健

2015年08月27日 00:01

夏休みを利用し、京都の佛教大学四条センターで公開講座を受講している。
「探検!ためになる比喩の流儀」佛教大学文学部教授 瀬戸 賢一
http://www.bukkyo-u.ac.jp/facilities/shijo/course/detail/448/2015/08/
第4回、5回と受講。最終日は受講できない可能性が高く、残念。

先回は「時間」と「とき」について。
特に興味深かったのは、
「時間」という概念は明治以前の日本人にはなかったとのこと。

その概念は「お金」の比喩として、理解されたとのこと。
使う、浪費する、節約する、配分する、費やす…英語でも同様とのこと。
「時給」の概念もここからとのこと。

明治以前は「とき」のみであった。
「うれしいとき / 悲しいとき」とは言うが、
「うれしい時間 / 悲しい時間」とは言わない。

「とき」はやまとことばで、濃淡のあるやわらかい縁どりを感じさせ、
「時間」は漢語であって、からっとした輪郭を感じさせる。
「とき」には、個人的な親しみがこもっているといえばよいだろうか。これに対して、
「時間」は、社会的な機能も前面に押し出す。(「メタファー思考」講談社現代新書)




先の話と、このツィートの話が、私の中でつながった。
図書館では「とき」を感じる。個人的な親しみがこもった場所と。
学校では「時間」を費やしていく。社会的な機能を「する」ことで浸み込ませる場所と。
それぞれの場所で、人は学ぶ。人により、その比重が違うのだと、私は感じている。


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