現在。
2016年02月26日
言葉をかみしめてみる。
今から30年も前の話である。
私がまだ、大学生の頃。
バブル期であり、就職先は引く手あまた。
名工大生は超売り手市場だった。
「昔軍隊・今企業」
私のゼミの恩師・塹江清志先生も、よく口にされた言葉。
限界エリートである名工大生は、とにかく30歳まで、
「がむしゃらに、働け」と。
それを聞いた私は、愕然とした。
普通教育を12年も受け、大学で専門を学んでも、
「がむしゃらに、働け」が出口となる会社における、自分の存在。
「何でもやらすことができる」ところに、名工大生の使い道があるのだろうと。
30年後の今、本当に、同級生たちはよく頑張っていると思う。
FBなどで垣間見ると、その活躍ぶりには頭が下がる。
同時に「何でも引き受けて、よくやっている」からこそ、
その存在価値はあるのだろう とも感じてしまう。
「企業内で何の仕事をするかも偶発的。
その果てに「何でもやらされる」か「何者にもなれない」か
の二択が広がってしまったのが現在。」
このことを今の若い世代は、就職前から感じ取っているのだろう。
そのため偶発的なものではなく、意識的に「何か」を求める人もいる。
しかし、どのように「何か」にアプローチするのかを、見つけ出すことさえ難しい。
やり直しができる社会であれば、いろいろ試してミスをしても、きっといいのだろう。
今の私にできることは、そのフォローだけなのかもしれない。
確かに教育者は、陰山メソッドをよく使う。
練習により、数値化がされ評価しやすい。
また個人内評価でも、達成感が得られやすい。
しかし長谷川先生のおっしゃる通り、その後のフォローが苦しい。
長谷川博一先生の「いいんだよ」シリーズを、
私はツィートで、毎日のように見ている。
教育者としての私の中にある「偏り」を、意識的に修正し、
目の前の、ひとりひとりのフォローを考える。
戦後の高度成長・安定成長の過程で、「何者であるかを決めなくていい」状態が平等であるかのような眩惑が支配した。できるだけ長期の普通教育、大学の専門なんて無意味、企業内で何の仕事をするかも偶発的。その果てに「何でもやらされる」か「何者にもなれない」かの二択が広がってしまったのが現在。
— 本田由紀 (@hahaguma) 2016, 2月 22
今から30年も前の話である。
私がまだ、大学生の頃。
バブル期であり、就職先は引く手あまた。
名工大生は超売り手市場だった。
「昔軍隊・今企業」
私のゼミの恩師・塹江清志先生も、よく口にされた言葉。
限界エリートである名工大生は、とにかく30歳まで、
「がむしゃらに、働け」と。
それを聞いた私は、愕然とした。
普通教育を12年も受け、大学で専門を学んでも、
「がむしゃらに、働け」が出口となる会社における、自分の存在。
「何でもやらすことができる」ところに、名工大生の使い道があるのだろうと。
30年後の今、本当に、同級生たちはよく頑張っていると思う。
FBなどで垣間見ると、その活躍ぶりには頭が下がる。
同時に「何でも引き受けて、よくやっている」からこそ、
その存在価値はあるのだろう とも感じてしまう。
「企業内で何の仕事をするかも偶発的。
その果てに「何でもやらされる」か「何者にもなれない」か
の二択が広がってしまったのが現在。」
このことを今の若い世代は、就職前から感じ取っているのだろう。
そのため偶発的なものではなく、意識的に「何か」を求める人もいる。
しかし、どのように「何か」にアプローチするのかを、見つけ出すことさえ難しい。
やり直しができる社会であれば、いろいろ試してミスをしても、きっといいのだろう。
今の私にできることは、そのフォローだけなのかもしれない。
陰山メソッドでどれだけ多くの親子が苦しまされてきたのか、「教育者」にはわからないんだろうな。とくに自閉スペクトラム等の子どもたちの被った被害は大きい。あのレールから振るい落とされ、後遺症のフォローを担う日々。私の「いいんだよ」ツイートは、彼のツイートと、本質で乖離しているだろう。
— 長谷川博一 (@hanycafe) 2016年2月25日
エデュ―編集部さん、スミマセン。でも「学力向上ありき」の本音は、表に出さなくともすぐに読み取れてしまいます。彼に煽られるなどして、児童期まではそれなりの成果を残し、青年期以降に破綻し苦しむ人の多さに鑑み、沈黙している訳にはいかないです。心見ずして幸福を語るべきでないと思いました。
— 長谷川博一 (@hanycafe) 2016年2月25日
確かに教育者は、陰山メソッドをよく使う。
練習により、数値化がされ評価しやすい。
また個人内評価でも、達成感が得られやすい。
しかし長谷川先生のおっしゃる通り、その後のフォローが苦しい。
長谷川博一先生の「いいんだよ」シリーズを、
私はツィートで、毎日のように見ている。
教育者としての私の中にある「偏り」を、意識的に修正し、
目の前の、ひとりひとりのフォローを考える。
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Posted by 星野 健
at 08:00
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