オンライン双方向授業を考えたとき… ~小学生の頃を思い出す~

2020年04月25日

 ~母校は、岐阜市立本荘小学校~


オンライン双方向授業を考えたとき、細分化をしている自分に気づいた。
まずは、単元の中での細分化。基本と応用に分け、自宅と学校で学ぶ内容を分ける。
次に、授業の細分化。教授する部分は、既存動画でいい。補足と確認がオンライン双方向授業の中心だ。
「すべてをネット」で、ということを狙うより「対面授業」との区分に、私自身は現在、行きついている。

考えているときに、2人、小学校の恩師を思い出した。
1人は4年生担任のT先生
「終わったら好きにしていいよ」が、口癖の先生だった。終わったら外で遊んでいる友達もいた。
友達と一緒に遊びたいので、私は問題を解き終えたら、次々と男女問わず友達を教え続けた。

そうしているうちに、人による理解の違いを知り、
「どのように伝えるか」の工夫を考えるようになった。
逆に、苦手な図工などは、友達が手伝ってくれるようになった。
父の仕事「紳士服仕立て」が激減した年で、家庭は荒れていたが、学校で私は救われた。

その9年後、私が大学生となったとき、T先生とは「塾長」「バイト生」の関係となった。
工学部学生が「公立学校教師になる」きっかけを、T先生が開いてくれたことになる。

もう1人は6年生担任H先生
とても厳しい先生だった。18時、19時までクラス全員が残されたことも珍しくなかった。
「抜き打ちテスト(予告なしのテスト)」も多かった。それに対しての生徒の批判も多かった。
私はそのころ、テスト前でも全く勉強していなかったので、何の影響もなかった。

「道徳のタイトルづけ」を、月に一度程度させられた。
『資料を先生が読むので、この資料のタイトルを答えなさい』というものだ。
どんな資料か忘れたが「重かった切符」というタイトルを私がつけてから、
褒められると同時に、私への「勉強の質の要求」がきつくなった。

きつい要求を出されたは、自由勉強。
「調べた結果、何を考察したのか」という出口がないと、最高評価「A」をくれなかった。
自然に自由勉強は「歴史」が多くなり、「まだわかっていない」と書かれている内容ばかりを狙っていった。
その頃は、歴史家・磯田道史さんに似ていたかもしれない。

「出口が見えない」とき、根拠・条件を元に考察を重ねていくこと。
小学6年生の私に、「出口を見つける」訓練をしてくれたのだ。「それこそが『学びの出口』だ」と。
根拠・条件設定・考察の1つでもツッコミどころがあると、Aから評価を下げられた。
そして「出口が見えない」ときに、「自分なりの形」をつくる癖を、鍛え上げられのだ。

こんなことを、ふと思い出した。  
Posted by 星野 健  at 16:52Comments(0)岐阜聖徳学園高校時事